ともに重荷を負う
出エジプト記 18章13節から27節
1. 神の民の中にも多くの問題がある事実(13〜16節)
(モーセの手を通じて)神に救い出され、約束の地へ旅する神の民。
しかし、一日中かかっても処理しきれないような問題があった。
人が生きる所には、困難・苦難、行き違いやすれ違いが存在する。
私たちの人生の旅路にあっても、教会の中にあっても。
→ 問題や行き違いがなくなる事ではなく、その問題を乗り越え、行き違いを赦し合える事の中に表される神の恵みの証し
2. モーセの謙遜(17から24節)
神に選ばれた絶対的指導者モーセ→責任感でもあるが、一人で背負い込んでいた。
この旅とこの民とは直接関係ないイテロの助言を聞き入れ、「すべて」言ったとおりに。
謙虚であれた理由: この責任(事業)と旅路は「主からのもの」との自覚=自分は主の重荷と働きの分担者という自覚。
→ 人は自分の努力で謙虚になることは難しいが、主の前に自分を置くことによって謙遜を学べる。
3. 重荷を分担する誠実な人達の存在(25〜27節)
条件: 神を恐れる、力のある、不正を憎む誠実な人
人数: 単純に男子60万とすると、千人長で600人、十人長は6万人。これだけの人がいた事は恵み。
分担: 責任の大きさ、仕事量等は、必ずしも人の優劣ではなく、人間的な「偉さ」でもない。
教会でも、家庭でも、職場でも、各人が主から受けた責任の場と弁え、誠実に、互いに尊敬と信頼をもって、主の荷をともに担おう。